翔(と)んでるDa Vinci 2021年8月10日火曜日

Leonardo Da Vinci
彼は他の芸術家と比べると、Romaにはそんなに足跡を残していないように見えますが、滞在していたのです、Campo di Fiori 広場近く(朝市で有名な)に 、 あの偉大な巨匠が !!!

* 翔る(かけ-る)… 鳥や飛行機が翼で空を飛ぶ。又、(足が地につかないかのように)飛ぶように行く。飛ぶ。飛んでる(=常識にとらわれずに行動する。自由に生きる)を、翔(と)んでるとも書く。[小学館]

。。。イタリア語で単語を書いても、定冠詞を入れていないので(入れなくてもいい場合もあるらしいので、難しい….) 、イタリア人から見ると変なイタリア語になるでしょうが、許してね。カタカナで書くと、なんだか間延びするみたいなので、定冠詞なしのイタリア語で書いたりしますが…..。。。

Da Vinciは、画家としても素晴らしいが、工学や建築にも多大な興味があり、特に水力学と軍隊工学にひかれていたようです。例えば、Arno 川(Firenze) の水流変更だとか….

余談 :br> 水流変更といえば、ローマのテーベレ川だって、紀元前1世紀のジュリアス・シーザーが考えていたのは、サン・ピエトロ大聖堂前のテーベレ川のカーブを、まっすぐにしようという事だったらしいが、暗殺されてダメになった。1800年代に出てきたイタリア王国実現のために働いたGaribaldi も、テーベレ川の水流を、サン・ピエトロ大聖堂の後ろにもってきて大聖堂をグルっと円形に囲むようにして、再びテーベレ川に合流させようとしたかったらしいが…….

Da Vinciは、1514年にローマへやって来ました。Medici家が送り込んできたのですが、ローマの芸術家達からはあまり歓迎されなかった。その当時のローマは、現在のサン・ピエトロ大聖堂を建築する、又バティカンの館を装飾するという大仕事があり、ローマ全体が活気づいていたのですが、芸術家達の仕事争い、派閥 ? もあったりして、Da Vinci が入っていくすきまがなかったようです。

芸術家として受け入れられなかった彼でしたが、数学や科学の研究に、没頭していました。サント・スピリト病院( サン・ピエトロ大聖堂の近くテーベレ川沿いに、今でもある大病院)で、解剖の研究も熱心におこなっていました。

又Specchi Ustoriの研究もそうです。水を張った容器に太陽の熱を向かわせて、エネルギーを生み出すという….. しかしこれは、ドイツ人助手の無理解も手伝って、成功しませんでした。

Civitavecchia港の再建築や
Pontineの沼地の開墾なども提案し、その当時のレオ10世ローマ教皇(Medici家出身)に支えられていたのですが、教皇の死後、ダメになってしまいました。

1517年に、無記名の手紙がバティカンに届きました。それによると、「 Da Vinciは魔術をやっている。サント・スピリト病院で死体を相手に魔術をしている。」との非難の手紙だったので、Da VinciはRomaが嫌になり、RomaどころかItalia にもおさらばをして、フランス王に招かれていたので、そちらに行ってしまったのです….。。。脳みその国外流出は、今に始まったことでは、ないみたい。。。

彼はいろいろなスケッチやメモを残しており、il Codice Atlantico アトランティック・コードとよばれています。64,5cmx43,5cmの用紙が使用してあり、1119枚もあるそうです。1478年~1518年にかけて書かれました。彼が書いたものを理解するのも一問題だが、彼の着眼が分かり、たいへん面白い。

この中に、例えば潜水服も見られます。377ページを見ると、簡単なスケッチがあり、一人の人間が、皮で作られたじょうごみたいな物を口に付け、そのじょうごから、くだが伸びていて、くだの所々には、はがねのリンクがはめられて、ねじれないようになっている、それが水面まで続くのでしょう。興味のある人は、サイトで見てください。なんだかおっそろしい不気味な感じです…….
いや、こんなことは言うべきでない、あの時代によくもまあ….. 脱帽します !!!

その他にも、跳ね橋だとか….. 2世紀にハドリアヌス皇帝が、Roma郊外にある Tivoliの “ハドリアヌス皇帝のお屋敷” に造った、あんな可愛らしい橋ではなくて、どこかロンドンのテームズ川にかかってるような、船が通る度毎に、機械仕掛けで動くような本格的な跳ね橋….. 又ロボットも考えていました。

Da Vinci が、現在の人だったら、どうなっていたでしょうね….