そぞろ歩き(もう一人のイタリア人)続き 2021年12月21日火曜日

Tiziano Terzani

特派員、作家 (1938 生 ― 2004 没 66才 )

「 アメリカ人達は ヘリコプターで逃げ、ベトナム人達は、我々を攻撃し、アメリカ大使館は、ものすごい混乱の中にあった。あの夜、私は 歴史を感じた。最初の戦車が 街の中に 入ってきた時、そして 最初の軽トラックが 、反乱軍の兵士達を乗せて入ってきた時、ベトコンが、” Giai Phong ( 自由解放 )!!! ” と 叫びながら 入ってきた時、私は まさに 歴史だ !!! と 骨の髄まで感じた。私は泣いた。戦争が終わったというだけでなく、歴史を痛切に感じたからだ。これが 歴史だ。実際に 30年後に考えてみると、あの日以来、インドシナの歴史が 変わったのだ。」…..「 La fine e’ il mio inizio」( 最後は 私の始まり 2006年)より…..

。。。その後 ベトナムの戦後について、彼は 失望を 重ねていくのですが、真実への探求への限りない追求は、すごいとしか いいようが ありません。。。

1975年、彼は 家族と共に 香港へ 移住しました。やっと中国の入り口にたどり着いたようです。

1976年、イタリア日刊紙 la Repubblicaと 働き始めます。10月に 初めて上海に旅行し、政治・経済についての中国社会を 書きました。

1977年、彼は、インドシナ難民の悲劇の証人になったりしますが、それは、1年後にくる ベトナムのカンボジアへの侵入を、予告するようでした。 その頃、カンボジアでは、ポル・ポト独裁者による政権で、大量虐殺が行われていました。1975年~79年にかけて、カンボジアの人口の 1/3 が、強制労働、栄養失調、医療看護欠乏 などで、死んでいったからです。歴史上、”カンボジアの大量虐殺” と、呼ばれています。

彼は、生々しい 大量虐殺について、長期間取材していきます。この時の経験話しを、奥さんのAngelaさんが本にまとめて、2008年に出版しました ….「 Fantasmi 」

1979年に、ベトナムが カンボジアに侵入してきます。元々は、両国の国境争いが原因だったのですが、大戦争に発達していき…..興味のある人は、別に検索してみて下さい….、最後 パリで平和条約が 結ばれたのが、1991年でした。

1980年(42才)に、彼は ついに 北京に移住できました。TimeやNewsweekよりも早く、西洋雑誌としては、最初の特派員になったようです。カリフォルニア大学時代に夢見た 中国移住を、やっと 、実現させました。

しかし中国からも、やがて追放になるという、。。。 真実を求める姿勢が許されるというのは民主主義の世界だからこそ、でしょうか。。。国中を自転車で走り回り、散歩しているように 見せかけて、外国人立ち入り禁止場所へと、入っていった事もそうでした。

真実への追求、なるべく自分で見聞きした体験談を書く、という姿勢を、貫き通したようです。彼は 、腸の癌に 犯されたようです。ヒマラヤ山中で 長い療養生活を経た後に、イタリアの Orsignaへ 戻ってきて 療養生活、そして 65才で、亡くなりました。

彼の言葉 :

「 旅行と生きるという事は、一体だった私だが、病気になってしまい、もう一つの旅行をするはめに なってしまった。望んだわけでは なく、突然に やって来たので、何の準備もしていなかったが、今までのどんな旅行よりも、緊張感、集中感、困難を感じる。」

「 今では、死ぬという事にすごく関心を そそられる。ただその瞬間を、書き表せないのが残念だ。」 Anam 名無し…..2005年

「 自由についてだが、これは、各々が苦労して手に入れるべきであって、与えられるものでは ないと思う。もしも山の頂上を目指すなら、自分で登っていかないといけない、他人では ダメだ、又は ヘリコプターで運んでもらうという事で、解決するわけでもない。アフガニスタンの女性達が、自分達の尊厳を犯すからというので、ブルカを嫌うなら、自分達で闘わないといけない。アメリカの兵隊達が、パラシュートで降りてきて、ブルカを取り除くというものでもない。他人が介入出来るものでもなく、当事者自身が解決していかないといけないものなのだ。助けることは 出来る、だが 獲得する闘いは、まず本人達が始めないといけない。」….2002年