そぞろ歩き(愛されたイタリア人)2021年1月15日土曜日

。。。そろそろ、イタリアのMattarella大統領の任期が切れ、まもなく 新大統領選挙が、今月後半に始まります。いつだったか、Mattarella大統領がどこかを訪問していた際に、1人の子供が何かを質問したら、彼は、私は年を取ったので もう疲れたからこれ以上は したくないと答えていました。

7年間が、大統領任期ですが、Mattarella大統領は 80才 。大統領というのは、やはり それ相当の年令でないと、安定感に欠ける雰囲気があるし (では、Macron大統領は、どうかって ?….さあ….)、かといって7年間というのは やはり長いですね。私が茶の間に座っている間に、彼は今日は シエナ、明日は アルジェリアと、飛び回っているのですから、又今日は女性を守ろう、明日はボランティアの人は素晴らしいなどと、毎日どこかでスピーチをしている姿を見ると、健康も頭脳保持も、中道左派も右派も考えながら、と 並大抵では ないと思います。

次期の候補者選びは、難しいようですが、大統領というのは、国で 最高の権利を持つわけで、戦争を始めるのも、法律施行も、彼のサインでOkになるという、軍隊の最高位にもいるわけで、なりたい人には、たまらない魅力でしょう………..ですから 誰がなってもいいというわけではない、しかも国民が直接に選ぶのではなく、国民が選んだ政党 ?! の 議員達が選ぶという…..納得出来ない…..ずいぶん前に 候補者探しの時に、ソフィア ローレンはどうだろうか、なんて言う冗談みたいな声も聞かれたという事ですが…..今回もまた、嘘でしょうみたいな声も 飛び交っているようです…..

さて 大統領の職というのは、イタリアが共和国になった 、第二次世界大戦後に生まれたのですが、国民に愛された大統領というと、やはり あの人が、あげられるでしょうか….。。。

Sandro Pertini サンドゥロ ペルティーニ (1896年 生 ~ 1990年 没 93才 )

イタリア共和国の第7代大統領 。任期 は1978年 (81才)~1985年(88才)

彼は、Liguria州 ( 州都はGenova ) の、Stella (860人住民)という小さな町で生まれ、父親は 土地所有者だったので、マア裕福な環境だったようです。5人兄弟の4番目。兄弟達は、画家になったり、軍人、1人は 第二次世界大戦で、ドイツの強制収容所に連れていかれ、そこで亡くなったりとか、妹は 外交官と結婚したりという、彼は 男兄弟の間では、末っ子でした。お父さんを11才で 失くして、お母さんの手で育てられたのですが、このお母さんからの精神的影響が大きかったと 言われています。

彼は、どちらかというと、皆とワイワイというよりは、離れて、レオパルディ(イタリアの詩人、作家、哲学者。1798年~1837年 ) やドストエフスキーを読んだり、自転車で走り回るという子供だったみたいですが、「 私が人生の中で 何か良い事を成し遂げられたというのは、実に 母から教えられた、又 母から受け継いだ性格の賜物(たまもの)だと思う。」と、後年、彼は 語っています。ただ 母親は神に対して忠誠を誓っていたのが、彼にとっての神というのは、*社会主義 、でした。

*社会主義….. 世の中で人と共に生きていこうと思ったら、資本主義か社会主義か、の方法がある。

資本主義は、自分で働いて得たお金は、全部自分の物。そうなると、金持ちはますます金持ちになるという貧富の差が生じてくる。同じ人間に生まれながら、あの人は プールつきの家、私は小さなアパート(何かをさわらないで歩ける空間が無い狭さ)という状況もあり得る。

社会主義は、各々能力に応じて働き、働きに応じて国よりお金を得られる。自分の財産というのは持てない。この考え方が進んでいくと、共産主義にたどり着いて、きめ細やかな仕事をしても、大雑把な仕事をしても、均等に支払われ、自分の財産は相変わらず無しになり、平等な社会になるだろう、という、貧富の差も無し、穏やかな空気が生まれるだろうと予想されたのが、穏やかさが無気力に代わり、結局 ならず、1991年に ソビエト社会主義共和国連邦は、崩壊した。そして、1991年にロシア連邦と名前を変えて、資本主義を導入しながらの、社会主義国家を目指している。

18才(1914年)、彼の高等学校時代ですが、社会党のメンバーになります。社会党を設立したのは、Filippo Turatiで、Pertini は Turatiを、Maestroマエストゥロ と、いつも呼びました。Pertini が入党した時、Turatiは 57才でした。

大学では、法学/社会科学部を選び、アルバイト(建築現場での土木作業員)をしながら、卒業します。

この時期に、彼は、反ファシズモ運動 “Italia libera (解放されたイタリア) “にも加わります。

19才 ~ 24才 (1915年~1920年):

第一次世界大戦で、Isonzo 前線で戦い、銀メダルを受けるくらいの戦いぶりだったのですが、彼の政治的立場が理由で 受けとれず、1985年になって やっと 受け取ることが出来ました (。。。まあ彼にとっては どうでもいい事だったのかもしれないが。。。)。

法廷関係の仕事や 弁護士。Savonaの彼の事務所は何度か壊され、又赤いネクタイをしていたので、ファシスト達の槍玉にあがったりしたようです。政治活動。その間に、最初の有罪判決、8ヶ月間の刑務所暮らし 、を受けますが、この時、彼は自説を曲げないで、全部の責任を自分で引き受けました。判決理由は 反ファシズムの小冊子を印刷した(自費)という罪。

30才(1926年)。11月に ボローニャで、15才のAnteo Zamboni少年が ムッソリーニ暗殺を図りましたが失敗に終わり、反ファシスト狩りが 厳しくなっていきます。Zamboni少年は その場でひどいリンチにあい、亡くなりました。

Pertini は、Savonaを逃れ、Milanoに 隠れ、地下活動を続けます。そして 12月4日に ファシズム反対者に対して、特別法律が発効され、彼は、5ヶ月の禁固刑(労働作業のない刑務所暮らし)を言い渡されたので、Turatiの逃亡計画を立てる際に、彼自体も共に逃亡する事を決めたようです。

最初にSavona へ逃れ、12月11日の夜 波止場から同志達に助けられ、モーターボートで脱出。嵐の中を 翌日の朝、Corsica島 (フランス)の Calviに 到着出来ました。同志達は 翌日の午後、イタリアに戻って行きましたが、TuratiとPertiniは、このフランスの地にとどまり、ニースに渡り、現場土木作業員をしながら、やがてパリにやって行きます。

(続く)