1929年(33才):
パリでは、2つの大学卒業証書があるにも関わらず、土木作業員、ペンキ屋、パラマウント映画のエキストラなどをやりながら、反ファシズム運動を 地下活動として行いました。
しかしイタリアで荒れ狂っている社会状況を、 フランスで聞いているだけでは 我慢できず、偽パスポートでもって、再度イタリアに 入国してきます。
別に 婚約者(その当時は、Matilde Ferrari ) に会う為でもなく…..そういえば 彼が出来た 最大の愛の表現といえば、フランスのニースの隠れ家に、彼女の名前をつけるのが、精一杯だったようですが。
モーターボートで送ってきてくれた同志達は、イタリアに帰ってきて波止場にモーターボートを繋いでいたところを、警察に逮捕されました。同志達は その辺りを楽しんで 戻ってきたと言い張ったのですが、通じなかったようです。
パリ、ニース、パリ、ジュネーヴ、そして 相変わらず偽パスポートで、Chiassoキャッソウ(スイスの南端の市)から 、イタリアへ 再入国。
あちらこちらの街を訪問し、ミラノで、ムッソリーニ暗殺計画を練ります。ローマの ヴェネツィア宮殿で ムッソリーニは ファシズムの本部をおき、そこで職務を行っていたので、その宮殿の地下の下水道に、時計式の強烈な爆弾を仕掛けるという案をたてましたが、よく調べてみると、警報が 張り巡らされ、監視も厳重だったので、ここでの実行は断念したようです。
。。。後に大統領となって、彼は 式典をするために 、ヴェネツィア広場に行く度ごとに、 宮殿を見たでしょうが、感無量だったでしょうね…..その度に 人知れず いろいろな思いが 彼の頭の中を、駆け巡ったに違いありません。表面は 知らん顔をしていたくせにね !! 私達ガイドだって、もしも宮殿が 爆破されていたら、別の説明をする事になったかもしれない ……。。。
彼は あきらめず、 暗殺案を再び考えていきます。ミラノに戻り、その事を話し合うために ある人と会うことになって、彼はPisaへ 行きます。
しかし Pisaで、あるファシストが市電の停留所にいる彼を見かけて 逮捕し、彼は 裁判の後に、11年の刑と、3年間の禁固刑を受ける羽目になってしまいました。裁判中 彼の唯一の心配は 、「 ファシズムは 落ちろ、社会主義 万歳 !」と叫んでいた為に、 裁判が 封じられないかと いうことだったらしい。
その当時、イタリアは 独裁政治に 滑り込んでいたのですが、彼は Santo Stefano島 (Lazio州の地中海の小島 )の刑務所に送られ、そこで、 我々の大統領は、彼の理想の為に、又 彼自身や 他の囚人達の尊厳を守る為に、頑固に 抵抗を 続けていきました。
人間的な扱いをされようと望み、本の所持の許可や、歴史・経済・英語 を学ぶ環境を獲得する為に、彼は 闘いました。病気になったものの、彼の母親が ムッソリーニに当てた、 恩赦を懇願した リクエストを、我ら大統領は キッパリと はねつけました。どうしても 政治的な信念を、曲げたくなかったようです。彼は 「 自分の中で、唯一清い偉大な物があるとすれば、まさに この政治的信念だ。」と、言ったのです。
まあこのように育てたのは、お母さんでもあるでしょう……. その後、 お母さんは、家の前に座って、毎日毎日 何年も 、息子の帰りを待っていたのだそうですが、反対に、もしも恩赦で帰ってきたのなら 、お母さんの子とは 言えなかったかもね……
彼が 刑務所の中での想いを、書きつづっています :「 目覚ましが聞こえる….夜明けだ。海から 愛の歌が流れてきて、Ventotene島からの鐘が、遠くで鳴っているのが聞こえる。空を見上げると 真っ青で、雲一つない、ひとふきの風が 心地よく私をなでる。夜の間に花が開いて、その香りも風は運んでくる…..春の始まりだ。これらが私にめまいを起こさせるので、私は 再び ベッド(。。。といえる代物。。。)に倒れる。私の、まだ何かを出来るという生命が 、日々この壁の中で 消耗していくのを悔やむ 、鋭い、激しい痛みが身体中を 走り抜ける。意志が、 激しい動揺と闘っているのだ。そして 一瞬後、私は起きて、冷水を顔に投げかける、意志が勝ったのだ。毎日の生活に再び入っていく、ベッドを直し、監房を掃除し、体操をして、読書、勉強….」
刑務所の中では、辛いことばかりではなく、例えば イタリア共産党設立者の一人である Antonio Gramsciと友好をもったりもしました。Pertiniは、 Santo Stefano島の刑務所で 健康を損ねていたので、フランスの同志達などが抗議をした結果、彼は Puglia州の Bari 近くにあるTuri 刑務所に移されたのですが、そこでGramsciと知り合ったのです。Gramsciは 彼を 共産主義者にかえようと、いろいろ試みましたが、それはならず、しかし お互いに尊重し合いながらの 友好関係を 保ちました。
Pertiniより 5才 年上だった Gramsciは、1937年に 脳出血で 、Romaの私立病院で 亡くなったようです ( この件についても いろいろな話があるようで、書けば面白いとは思うが、イタリアの共産党についても 勉強しないといけないでしょうから、 こうなると 我が人生、何をやっていたのやら ! もう、別の機会にしよう )。
(続く)
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