そぞろ歩き( カターニア散歩)続き 2022年12月16日金曜日

。。。Postino 11月18日金曜日に、最初の カターニア散歩を、投稿しています。この街の港には、Ong 船も着いたりして、最近 話題を呼びました。。。

では、再び ドゥオモ広場に 戻ってきました。これから エトネア( Etnea ) 通りに 入っていきましょう。

大学広場 ( Piazza dell’Universita’ ) :

4 隅にある 街灯に それぞれ ブロンズ像があり、街灯を支えています。それぞれのブロンズ像は、例のごとく 古代ギリシャ神話の神様かな、と思って 近づいてみると、いや少し違うようだ…..というので、ジーっと見ると、それは民衆にとって人気があった 、カターニアにまつわる人物像みたいです。

その内の一つ、Gammazita の 乙女、を見てみましょう。1280年頃のお話。彼女には、将来結婚を約束した恋人がいたのですが 、彼女に魅せられた あるフランス兵が 言い寄ってきたので、彼女は 井戸に身を投げて 純潔を守った、という 健気(けなげ )な エピソードです。で、何でここに、フランス兵が 突然に現れてくるのかと、言いますと …….

その当時、フランスのアンジュ家が、シチリア島を 支配していたのですが、過酷で無慈悲な政治だったので、民衆が立ち上がって 反抗をしたのだそうで、だから ただの 単純なフランス兵ではなくて、反抗の精神に燃えた シチリアの魂が、ダブっていると言えそうです。

ローマの近代絵画博物館 ( Galleria d’Arte Moderna , Roma ) に、Vespri siciliani ( シチリアの晩鐘 Francesco Hayez 作品..3枚 描いた内の 3番目 )という絵がありますが、まさにこの出来事を扱った絵です。。。 作品が展示していない時もあります。。。

ジュゼッペ・べルディのオペラ ” シチリアの晩鐘 ” も、そう。晩鐘 というのは、カトリック教の夜の祈りの鐘 を意味するのですが、その反抗の時は、晩鐘を合図にして、まず パレルモの町から、そして全島に 反抗が、フランス兵を 虐殺しながら、広がっていきました。

別の彫像、Colapesce を、見てみましょう。Cola とは、Nicola という男性名の略で、pesce は、魚。彼にまつわるエピソードは、18位もあるのですが、その内の一つ…..これも中世時代の出来事です。Cola は、長時間 水に潜り、海中を泳ぎ回るのが 好きでたまりませんでしたが、その事を聞いて、Federico II (フリードリヒ2世 ) 王は、彼を呼び、金のカップを海に投げ込み、取ってくるようにと命じました。Colaは、すぐに潜り 拾ってきて、王に 差し出した 所、シチリア島の 下に、何があるのか見てくるようにと、命じます。彼は 再び潜り、戻って来て「 島は 3本の柱で支えられている。あとの1本は、火でもって、燃えつきてしまいそうだ 。」と、答えました。王は、その火を、持ってくるようにと 再度 命じ、彼は潜ったものの、そのまま 浮かび上がっては、きませんでした。伝説 ( ??伝説の伝説 ? ) によると、未だに彼は、4本目の柱として、島を支えているだろうと、いわれています。広場で、この像を見つけたかったら、小さな花瓶みたいな壺を 手にしている像を 探してください。

その Colapesce の 像を見ると、顔やからだがツルッとしているのは、又 別のエピソードがあり、それによると、彼は 海中に潜るのが好きで好きでたまらなかった、というのは、先程の エピソードと 同じですが、それを見て母親が、それでは 魚になっておしまい ! と叫ぶと、彼は段々 魚みたいに なっていった…..というのだそうで、子供には ショックを与えそうで、余り話せないエピソードです。

この大学広場は、広々としています。床は 溶岩のブロックで 敷き詰められていますが、広場の中央に浮き彫りで はめてある、カターニアの 紋章に注目してみましょう….

あれあれ、ゾウさんです !!

以前のPostinoで、ドゥオモ広場で、なんでゾウさんが、と私 が言った事、あれは、もう忘れて下さい …… なんて無知な、と 舌打ちした人も いるに違いありません。人というものは 間違いながら 進んでいく、ということわざが あったのかどうか ……

普通、紋章というと 、強そうな動物が たいがい使われます…..ワシとか ライオン 等。その点、ゾウとは、ユーモラスで いいですね。

赤いゾウが紋章の中央に 横向きで描かれてあり、長い鼻を上げ、4本の足は まっすぐ地面に立っている。ゾウ( 漢字で 像 と書いても 同じ ) の上には、アルファベットで、 A ( = Duomo 広場に面している Santa Agata 大聖堂 の “A” ) の文字が 見える。紋章の上には、アラゴン家の王冠 が 見える。紋章の下には、S.P.Q.C ( Roma は、SPQR でしたか ) と書かれてある。

カターニアのお守りとして、ゾウさんは、10世紀頃から 早々と お目見えしてきたようです。古代ギリシャ・ローマ時代、皇帝の力と勝利のシンボルマークとして、使われたそう….そう言われてみれば、ハンニーバルが、ゾウを引き連れて 戦いにやって来たので、ゾウを初めて見た古代ローマ兵達は、腰を抜かさんばかりにして驚いた、という エピソードが ありましたっけ…..ゾウを戦いに初めて使ったのは、古代ギリシャのアレキサンダー大王だと言われていますが、なるほど、力のシンボルとして納得がいきます。

中世時代に入ると、もう少し 別の面を、ゾウは、表していきます。永知と善意、の意味が 込められ、1200年代から、カターニアのシンボルとして、お目見えしてきました。

Duomo広場の ” ゾウさんの噴水 ” に 戻りましょうか…. 前回の ” カターニア散歩” では、初めての観光客が発するような 言葉で私は 終わっていたので、何だか 余り芸がないみたいで 反省、少し 補足しておきたいと思います。

この ” ゾウサンの噴水 ” 全部の設計は、1735 ~ 37年にかけて、パレルモ人の Vaccarini 建築家の手により、出来上がったと言われています。ただ この噴水は、部分的に見ると、いろいろな時代に創られた物が寄せ集まっています。

ゾウサンの彫刻….一枚岩の溶岩に 彫られているようですが、どこの誰が 彫ったのか 分かっていないようで、たぶん、カルタゴ人が シチリア島を 支配していた時代…紀元前….に 彫られたのだろうと、言われています。

このゾウさんは、’u Liotru と言う愛称で呼ばれている 市民の 人気者 !! なのですが、ただ 何で そう呼ばれるのか、いわれが もう一つ 分かっていないようです。これも又 いろんな説があります。

最もポピュラーな説というと….Liotru とは、Eliodoro の名前からきているのだそう。この人は カターニアの貴族で 男性。どうにかして 大司教になりたかったのですが、なれず、キリスト教の信仰から 離れていき、魔術に のめり込んでいきます。彼については、いろいろな伝説が残っていますが、このゾウを彫ったのも実は 彼とも言われ、魔術を吹きかけて ゾウに命を与え、乗馬ではなく、乗像 していたとか…..ゾウにまたがって 人々に襲撃をかけたり、遥か コンスタンティノープル ( = イスタンブール ) まで、乗像して行き来していたとか、そういう彼も、最後には 、キリスト教の大司教から 火あぶりの刑を 言い渡されて、死んでいったそうなのですが。

又は、Liotru の名前の由来は…..オベリスクは 日時計の代わりに使用されていたのですが、太陽の光 = ギリシャ語源で elio 、から lio という言葉が生まれ、ゾウさんが 、Liotru と呼ばれるようになったとか……

そうじゃない、この像は 元々 東方宗教の神殿の中に、置かれていたのだが、なぜだかわからないが、祭壇から 突然に 転がり落ちていって、キリスト教徒に拾われ、彼らの中で 敬われるようになり、壁の外に 置かれていた。長い間 外に置かれていたのが 、Santa Agata 修道院 のべネディクトゥスの僧達が動かして、古代のアーチの中に、安置した….いろいろあって、もう訳していくの、 ついていけません…….要は あちらこちらと動かされ、ようやく 落ち着く所に 落ち着いたのだとも、言われています。

オベリスクに 一言触れておくと、3m半 位の高さで、Assuanから持ってこられた 、十字軍が 持ってきた ? オベリスクですが、 この エピソードも 永遠と続いていくので、もうカットする事にして、実は このオベリスク、Duomo広場に面した 肉屋の 壁に埋められ、天井を支える 柱として 使われていたようで、それから 道路上に放置されていたりと、オベリスクとしては 泣くような目にあい、ようやく ゾウさんの上に置かれて、日の目を見たらしいです。

この噴水の土台等、白い石は、もちろん大理石で、いろいろな素材の石で 出来ているこの噴水は、不思議な魅力を、醸し出しているようです。

。。。どうしても前に進めないわ…..。。。

( 続く )