カーニバルは 一般的に最も親しまれている祝祭の一つで特にカトリックの国々では 盛大に行われます。毎年 復活祭の40日前、四旬節が始まる直前の火曜日が恒例の宗教行事の日として催されます。
カーニバル(謝肉祭)という名称は ラテン語の『carnem levare』もしくは 『carnem levamen』これは『肉を断つ』という語源からきているようです。実際 四旬節に入ると通常 肉類もしくはその加工食品を控えます。13世紀末になり『カーニバル』という言葉が初めて文献に見ることができますが
これは『カーニバロ』と呼び四旬節が始まる前日に行った祝宴を意味します。
ところで この祭りの起源は どこから?
カーニバルという祭りの風習は とても古くギリシャ神ディオニソスのディオニゥシア祭また
ローマ神話の農耕神サトゥルヌスにまつわるサトゥルナーリア祭に始まります。特にローマでは 毎年12月17日から23日にかけて催されこれは太陽活動周期や季節のめぐりの周期とも関係していました。この時期 社会的秩序が完全に乱され、何事も全て許されたのでした。権力者もいない、戦争もない、裁判も仕事もしない、従者も奴隷もまるで主人のように振舞うことが許されました。
更に民衆の中から一人選び古代ローマの上流階級を風刺した姿にし、プリンケプス(市民の中の第一人者)としました。この時 派手な色合いの服を着せ、滑稽な仮面を付けさせました。この人物は、死者たちの魂を見守る冥界の神として また農地や農作物の収穫の守護神の擬人化した姿でも
あったのです。古代ローマ時代 農地が未使用の冬の間中、この神々が地上に現れ そこら中を徘徊し、冥界へ無事戻ってもらうためまた迎えるべき夏の豊作を祈願しこの神々に祭りを捧げました。このように古代ローマ人たちは、祭りの期間中、歓喜に満ち溢れた祝祭を過ごし、それは悪ふざけも不品行も許されて ありとあらゆる悦楽に浸ることができたのです。
昔懐かしきローマのカーニバル
このサトゥルナーリア祭に関する風習は その後 教皇時代もイタリア統一時も残り続けました。
そのため 毎年この時期 ローマは町をあげてのお祭り騒ぎ、仮面を付けて好き放題という常に伝統的な盛大なカーニバルが催されたのです。 ローマのカーニバルで最初に記録として残っているのは 10世紀に遡り ここから教皇の街・ローマの主要な祝祭の一つとして知られていきました。
四旬節の何日か前になると カンピドリオの丘にある有名な『パタリーナ』と呼ばれる鐘が鳴り響きこれを合図に、人々は一瞬にしてカーニバルという狂騒の渦の中へ入ってい行ったのです。
1400年代の半ばまでカーニバルの祭りは 現在のナボーナ広場の位置するところで騎士の馬上試合が開催されていました。 ただそれ以上に市民たちに好評だったのはテスタッチョの丘(当時の居住地区外)の悪趣味な催し物の数々でした。その中でも特に評判だったのは 『ルツィッカ
デ リィ ポルチ』(転げ落ちる豚)、これは 一種野蛮なゲームで二匹の豚に花で飾った小さい台車を真っ赤な綱で縛り付け高台の斜面から突き落として真っ逆さまに転がり落とすというものでした。 事前に若者が選ばれていて、これを止めに入らなければいけないのですがここに既に放たれている雄牛がこの赤い綱の激しい動きに刺激され興奮した状態で襲い掛かってくるという設定です。もうその場は驚くような大混乱状態!ですが最後はもちろん飲めや歌えのどんちゃん騒ぎでめでたしめでたし となりました。
1462年に就任した教皇パオロ二世の要望でカーニバルのほとんどの主要な行事は 現在のベネツィア広場に当たるところに変更させました。 これは完成したばかりの教皇の私邸でもあるベネツィア宮殿、それに面するベネツィア広場が市民の大歓声に包まれるカーニバルのフィナーレの 場所にするためです。 なんと教皇本人が一つ一つの競技の詳細なルールまで決めました。そこで 滑稽さを出すためにユダヤ人の徒競走は 必ず満腹の状態で参加する事、また クリスチャンの子供たちの徒競走だとか、オーバー65歳の徒競走も、さらにこれに水牛やロバの競技も加わりました。 時代が進むと更に新しい競技が増やされました。例えば 背が非常に低い人達の競技、足の不自由な人達の競技、体に形態異常のある人達の競技などです。ローマのカーニバルは 大衆に多大なる人気があったのは明らかですが同時に低俗かつ冷笑的な色合いも強かったことがわかります。 このカーニバルの最大のイベントは、教皇パオロ二世が始めたもので市民の間で絶大の人気を誇った『ベルべリ(もしくはバルベリ)のコルサ』でした。(この名称はアラブの馬の名を起源) このベルベリのホースレースの開催場所は、直線道路ラタ通りが使われました。 イタリア語のコルサという言葉は レースという意味であり このラタ通りが改称され現在のコルソ通りとなりました。騎手なしのこのホースレースは 現在のポポロ広場がスタート地点となり すでにテンションの上がっている群衆が通り沿い一杯に埋め尽くす中、歓声を浴びながら獰猛な馬が駆け抜けていく、そのゴールとなるのが教皇宮殿のバルコニーの下、ベネツィア広場でした。 レースの最中ゴール間際を走る競走馬に騎乗することが出来る者は賞品がもらえました。ゴールとなる広場は現在よりもっと狭い空間でしたのでそこに大きな横幕を張り、走り続ける馬をすかさず その幕で抑え込むといった具合でした。
また他に特徴的なイベントとして18世紀末に始まった『モッコレット祭り』があります。
参加者は 皆仮面を付け、モッコレットと呼ばれるロウソクを持ち最後まで火を消されずに持ち続けられると勝利を得るというものです。 この時 駆け足で他者のろうそくの火を消して、自分のものは消されないよう素早く逃げ、消された人は仮面を外さなければいけませんでした。
民衆に愛されたこの愉快なローマのカーニバルの終わりは イタリア統一とともに始まりました。ある年『ベルベリのコルサ』である若者が競技中に巻き込まれ亡くなってしまった事件をきっかけに 国王ヴィットリオエマニュエル二世は 爆発的な人気を博したが同時に非常に危険を伴うこのホースレースに幕を下ろす意向を発表しました。
これが 次第に伝統的なローマのカーニバルを終焉へと向けていったのでした。
Luigia R. (訳:美山留利子)