そぞろ歩き(愛されたイタリア人) 終わり 2022年6月25日土曜日

Sandro Pertini ….元イタリア共和国大統領 :

1)…. 2022年1月15日

2)…… ………….3月17日..続き

3)……. ……… 5月7日…続きの続き

Pertini と Saragat は、Romaの Trastevereトラステーベレ地域にある、Regina Coeliレジナチェーリ刑務所に 入れられ、パルチザン活動をしたというので、死刑の宣告を 受けました。

獄中で、他の政治犯達が 驚いたのは、そのような絶望的な条件下にいるにも関わらず、Pertiniは 落ち着いて 堂々としていたという事でした。

Saragatが、Pertiniの獄中での生活ぶりを、書きつづっています :

「 彼は すぐに囚人服を持ってくるようにと、 看守に 断固として 求めた。看守達は Pertiniに対して 劣等感を抱いたくらいだ、というのは、Pertiniは 看守達よりも 獄中での規則に、精通していたからだ。これから 銃殺されようという囚人達に向かって、Pertiniは 穏やかだった、どういう事かというと、日常生活で行うような事を、淡々と ここでも 行っていたからだ。囚人服は アイロンが ピシッとかかっていないといけないというので、Pertini は、寝る前に マットレスの下にズボンを 敷いて 寝たという…..まるで、エリザベス女王の夫のようなエレガンスさを、保っていた。」

ローマの軍裁判所で仕事をしていた 弁護士達は、刑務所内外の人と 接触をする機会があるので、脱獄案を 練っていきます。パルチザンも加わり、刑務所内の人、刑務所の医師、医師の妻も参加してきます。

脱獄、といっても 密かに シーツを垂らして窓から逃げるというような、又は 下水から、という 逃げ方ではなくて、 偽書類を作成して、合法的に逃げるという やり方でした。

最初の第一歩は、Pertini と Sagarat に対する裁判過程の書類を、ドイツ軍隊裁判所から、イタリア軍隊裁判所に移す事から 始まり、この二人を 、刑務所のドイツ監視下の第3棟から、イタリア監視下の第6棟に移動させました。

Saragat が 言っています :「 あの棟から出るというのは 死刑に向かう時だけだが、時には あの棟から、死体となって運び出される時もあった。我々二人が 奇跡的に生きて出られたのは、我々の力ではなく、ひとえに 自分達の命を賭けてまで、我々を生かそうとした、救出に当たったパルチザンの人々だ。」

刑務所から出る為の 偽書類が、 作成されます。ただこれだけでは充分ではなく、電話での 警察からの 正式許可がないといけません。

というので、刑務所の医師の妻 と 弁護士が、 警察に何回も電話をしますが 繋がらない、警察署の電話は 故障で、不通になっていたようです。しかしついに、イタリアのアフリカ植民地担当警察署 の交換部に繋がりました。この警察は、Pertini達の刑務所と同じ トラステーベレ地域にあったのですが、そこを通じて刑務所を呼び出してもらい、2人は…..たぶん 医師の妻が 秘書みたいな感じで 話を進め、弁護士に代わり、弁護士が警察署長を装って、” 直ちに囚人達を 出口に立たせるように ” と、断固とした口調で、偽の許可電話をしたようです !!! 彼ら2人の他に、5人の政治犯も脱獄しました。

1944年1月24日、脱獄、Pertini 47才。

その後、Pertiniは、主に イタリア北部でパルチザン活動を続けたのですが、一つだけ 触れておきたいのは……

ラセッラ通りの爆破事件 :

1944年3月23日、ローマの Rasella 通り (というと、地下鉄A 線Barberini から 出てきて、 トレビの泉に向かう途中にありますから、皆さんの中で通った人がいるかもしれません )で、パルチザン グループが、ナチスの軍隊が 行進している所に 爆弾を投げ、更に 4つの手榴弾 を投げて、ドイツ兵33人と市民2人を、死亡させた事件が起こりました。

次の日、ナチス側は、335人の、イタリア兵士 , 政治犯、ユダヤ人 、市民 等を、ローマ郊外にある Fossa Ardeatina に連れていき、報復の為に 殺してしまったのです。Pertiniが、もしも脱獄をしなかったら、その日に 殺されていた事でしょう。

当時の この 企ての 計画者である Amendola ( 共産党 ) は、Pertiniに なにも知らせず 決行してしまいました。Pertiniは 事件が起こった後で知らされ、激怒したそうです。Amendolaは、Pertiniとは 政党が違うので、なにも言わなかった。秘密の企てだったから、知る人が少なければ少ないほどいい、というわけだったらしいです。又 別の説によると、Pertini にこの計画を話しても、反対されるだろうという懸念もあったらしいと言われています。

後年、Pertini は語っています「 知らされていなかった、ということに対しては 怒ったが、攻撃自体は 全面的に認めた、というのは、パルミザンの法律としては、敵を見つけたら どこであろうとも、すぐに 攻撃しないといけない、というのがあるからだ。」

「 私自身の考えとしては、ナチの大軍に 比べて、我々は 少数で 規模が劣っているから、勝ち目がない。それよりも 平和に抗議のデモを したかったのだが…..」

この攻撃は、市民も巻き込んでしまったし、計画自体も非難されたりで、裁判に持ち込まれたりもしたくらいでした。

第二次大戦後は、社会党所属の政治家として、下院の国会議事堂の議長も勤め、大統領になった Pertiniです。彼のアパートは トレビの泉を前にして、右側面の建物の最上階でした。その建物の大きな門に入ると 少し通路があって、中庭に続いていくのですが、その通路で、私達は 観光途中 雨が降ると、雨宿りをしたものです。私としては、Pertiniとの 唯一接点がそこの通路、だからといって 彼を見たわけでは ない…..見たかったです 、握手できたら 最高だったのになぁ ….

彼は なくなる数日前に 転んだとかで、それが元で 悪化して、亡くなりました。

遺灰は 故郷の Stella San Giovanni に運ばれました。彼のアパートは、2011年に ローマ市役所のものになったそうです。

人生を 一貫して生き抜いた 彼に、乾杯 !!!

(終わり)