そぞろ歩き(ローマの街角)モーツアルト 2022年8月27日土曜日

la piazza Nicosia ( Nicosia 広場 ) 38 :

この場所は、私達 がローマ観光をする時に、ナボーナ広場から スペイン広場 (反対も又可なり) を歩く時に通る道 ( Monte Brianzo 通り / Clementino 通り )の中ほどにある小広場です。

そこには、天才モーツァルトが 1ヶ月間 滞在した アパートが あるんです。

14才の モーツァルトは、父親Leopold と共に、故郷を出発して、コンサート旅行をしつつ、もちろん その都度大 成功をおさめながら、1769年4月に、ローマへやって来ました。その当時は、イースターを祝おうと、全世界からといってもいい位 の外国人達が ワンサカと ローマにやって来ていた年でもあります。

ローマでの 最初の宿泊所は、お世辞にも 快適とは 言えなかったようです。ベッドがあるだけという感じで、隣に眠っている父親のそばで、熟睡なんて、できなかったとか。

1週間たって、現在のこのアパートへ 彼らは 移りました。バティカンの 使者をする Uslenghiウスレンギ氏のアパートで、ウズレンギ氏は、ポルトガルに滞在中だったとかで、氏の 奥さんと娘さんが、モーツアルト親子を、この上もないぐらい 親切に もてなしてくれたようです。

このアパートは、7部屋、入口から中に入ったとたんにある 小ルーム、台所、バルコニー、地下室( 倉庫としてよく利用される )、という 部屋割り だったそう。。。あの時代の事だから、浴室/トイレ は 書かれていないけれど、これも又 勉強してみます….。。。家具は 超ぜいたくではなかったにしろ、上品だったらしい。2階( 日本式で言うと 3階 )。

モーツアルトは、ローマへ 着いたとたん、サン・ピエトロ大聖堂へ 足を運び、サン・ピエトロのブロンズ像 ( 大聖堂前の大きな階段の始まりの左側にある ) に、口づけを したそうです。もちろん誰かに 体を 支えてもらってね。

現在は バティカン博物館の中に組み込まれている システィーナ礼拝堂。

その中で、1630年以来、アッレグリ作曲の ”* ミゼレーレ(我を憐れみたまえ)” 合唱曲が、歌われていました。旧約聖書の 詩編51篇を元にして作曲され、聖なる一週間 ( イエスのエルサレム入場から よみがえりまでの 一週間) がめぐってくる度に 歌われたのです。

* ミゼレーレ…Miserere。Gregorio Allegri作曲。朝3時頃から 照明を一つずつ消して 歌われ始めるので、闇から 朝の光へと、段々 薄明かりになっていく雰囲気の中で、いやがおうでも、聞いている信者達の気持ちは 高まります。聖なる曲というので、ウルバヌス 八世 教皇は、この曲が システィーナ礼拝堂外で 歌われるのを 禁止し、コピーも禁止、万が一 外に持ち出した人は 破門、という罰を制定しました。12のミゼレーレがある内、最後の アッレグリ作曲が、一番有名になりました。

門外不出とはいっても、その当時の、オーストリアの Leopold 一世皇帝は、貴重な譜面のコピーを、超幸運にも 正式に もらっていたのですが、演奏しても、オリジナルの迫力に欠けていたそうです。というのは、合唱に付加される 装飾的なメロディーまでは、コピーの譜面に 書かれていなかったのでした。皇帝は 、ああでもない、こうでもないと悩み続け、たぶん歌い手のせいだろうと思い、システィーナ礼拝堂で歌う 歌手を 何人か 呼び寄せたのですが、戦争が 勃発してしまい、皇帝は 戦地に向かったので、 とうとう聴かずじまいだったと、いう事です。

その合唱曲を 鮮やかに盗んだのが、我らの モーツアルトでした !!

モーツアルトは、1770年4月11日の水曜日晩に、システィーナ礼拝堂の中で、この曲を 聞き、この小さな偉大な作曲家にとっては、それで充分だったようで、大部分を 暗記してしまい、アパートに帰り、すぐに譜面にしてしまいました。

金曜日に 再び システィーナへ行き、少し修正を施したという事です。モーツアルトは、旅の途中で イギリス人歴史家に会い、その譜面を渡し、歴史家は 帰国してすぐに 出版をしたのだそうで、全世界に 広がってしまいました !!!

さあ ~ 時のクレメンス14世ローマ教皇は怒ったのかって ? 考えられない事ですが、 破門どころか、多いに 誉めたたえ、勲章まで 与えたといわれています。

モーツアルトはその後、5月8日に ナポリへ向けて出発。6月26日に 戻ってきて、相変わらず あのアパートに滞在、7月10日に 旅立ちました。

1769年のローマはというと…..

ナボーナ広場の噴水は、その当時 もうあった、広場の床はどうだったか… 噴水の水の排水口を塞いで 凹型になっていた広場の床に水をたまらせ、子供達が ピチャピチャと 水遊びをしていたのを、貴婦人達が馬車でやってきて 見物したりしていたそう。1653年に始まり、衛生上の問題などで、1866年に完全に廃止になったが、その間 行われていたり 廃止になったりと、ローマの名物の一つになったそうです………又 果物や野菜の屋台が ズラっと並んでの青空市場が行われていたのも、あの当時だったかどうか…..

トレビの泉は ? 完成祝賀会が行われたのが、1762年だったので、モーツアルトは、絶対に見たに違いありません。

(続く )